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アメリカ軍 部隊設定

100IBn/442RCT/34thDivision

第34師団第442連隊戦闘団第100歩兵大隊

1.部隊概説

 本ページでは、アメリカ軍側の設定部隊である、第100歩兵大隊について解説します。

 アメリカ陸軍第100歩兵大隊は、第2次世界大戦の開戦前からハワイで徴兵され軍務についていた1432名の日系アメリカ人を中心に1942年6月に編制された独立大隊でした。
 ウィスコンシン州キャンプ・マッコイでの訓練を経て、ヨーロッパ戦線に投入。イタリア戦線及び南フランス戦線でドイツ軍を相手に果敢な戦闘を繰り返し、アメリカ陸軍史上、他に類を見ない功績を残しました。

第100歩兵大隊 部隊章
第100歩兵大隊旗

 約1年以上の間、アメリカ本土で再訓練を受けた後に出征、北アフリカを経由して1943年9月に第34歩兵師団所属の第133歩兵連隊第2大隊としてイタリア、サレルノに上陸します。

 その後、モンテカッシーノの戦闘等多くの戦闘を経験し、1944年6月にチビタベッキアにて第442連隊戦闘団に合流、その第1大隊となります。第442連隊戦闘団に合流してからもその部隊名称は、それまでの戦歴を評価され、第100歩兵大隊のままとされました。

 第二次世界大戦中の従軍者3147名、戦死者338名、負傷者は延べ9148名であり、その数字からも戦いぶりが見て取れるかと思います。

 第100歩兵大隊並びに、第442連隊戦闘団の将兵の多くは日系アメリカ人2世でした。

彼らは明治時代に日本からアメリカへと移民した日本人(1世)の息子たちが多く、平均年齢はアメリカ軍全体の中でやや高齢でした。 日本人、明治男子により育てられ日本語や日本の文化に触れていた者も多かったのは事実ですが、まず大前提として彼らは日本人ではなく、日系ではあるもののアメリカ人です。時代として国へ忠誠を誓い、また国の為に戦うのは当然とされていました。

以下に第100歩兵大隊設立の経緯、及びその軌跡を記します。​​

2.部隊経歴
前史
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 ハワイにおける日系アメリカ人の歴史は古く、最初の移民(元年者と呼ばれる)は1860年でした。その後、日本政府が斡旋した官約移民、更に民間会社が行った私約移民を経て1924年の移民法によって日本人のハワイ移民が不可能となるまでに約22万人が移民。
 彼ら移民の一世は基本的に日本人でしたが、その子供たち二世はアメリカで生まれたアメリカ人として人生を歩むこととなります。
 多くの日系アメリカ人二世達が成人する1940年から1941年にかけて、ハワイでは1543名の日系人が徴兵によってアメリカ陸軍に入隊し、ハワイ州兵の第298及び第299歩兵連隊に所属していました。そして運命の真珠湾攻撃による日米開戦を迎えることとなります。

ハワイ臨時歩兵大隊から第100歩兵大隊へ

 

 真珠湾攻撃の後、当初は軍務として海岸線の警戒などにあたっていた第298、299歩兵連隊の日系兵達でしたが、ミッドウェー海戦が近づいた1942年5月29日、日本軍の上陸が予想された事から軍務を外され銃を取り上げられて待機させられる事となりました。

 6月5日には両連隊の日系兵を中心に白人の将校等を含む1432名でハワイ臨時歩兵大隊が編制、アメリカ本土へと移動します。

 オークランドに上陸したハワイ臨時歩兵大隊は第100歩兵大隊(独立)と名を変え、列車にてウィスコンシン州のキャンプ・マッコイへと移動しました。
 通常の歩兵大隊は親部隊となる歩兵連隊の下に第1、第2、第3大隊と編制されますが、第100歩兵大隊には親部隊もなければその部隊番号も特殊なものであった点、アメリカ陸軍もその扱いに苦慮していたのが見て取れます。

キャンプ・マッコイ
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 キャンプ・マッコイに到着した第100歩兵大隊は自身らが入居するバラックの設営作業等に携わりながらも早速訓練を開始します。

 これは既にハワイで終えていた基礎訓練を再度やり直すこととなりましたが、日系アメリカ人を理解する上官にも恵まれ、訓練成績で他の白人部隊を遥かに上回る成績を修めます。

 その間、他白人師団との大規模な”ケンカ”や、野球を通じて地元との交流を果たす等、様々なエピソードがありました。

 1943年1月7日、第100歩兵大隊はミシシッピー州のキャンプ・シェルビーへ移動。訓練の後、第100歩兵大隊は1943年4月から4月にかけてルイジアナで行われた大規模機動演習に参加し、戦闘可能な部隊としてその実力を上層部に示しました。

 そして1943年8月20日、ブルックリンより輸送船に乗船しヨーロッパ戦線へと旅立っていきました。

イタリア戦線

 

 1943年9月2日、第100歩兵大隊は北アフリカのオランに上陸、当初鉄道警備等にあたる予定でしたが、大隊長ファーレント・ターナー中佐が戦闘任務を強く希望し、その噂は司令部でも話題となりました。それを聞きつけた第34歩兵師団長チャールズ・ライダー少将が「面白いじゃないか」と、興味を持ったのが発端で隷下の第133歩兵連隊の第2大隊として第100歩兵大隊を加えることとなりました。
 第34師団所属となった第100歩兵大隊は9月22日に南部イタリアのサレルノに上陸。
 9月28日にはサン・アンジェロ近郊で初の戦闘を経験し、1人目となる戦死者も出しましたが、大隊はドイツ軍の防衛線を突破して初陣を勝利で飾りました。

 そんな中、1943年10月10日に第34師団よりヘルメットに部隊章をペイントするよう命令が下ります。
 アメリカ陸軍を代表する師団の1員(ひいてはアメリカ軍兵士として)に認められた証であるこの措置は、多くの兵士を喜ばせました。

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カッシーノ
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 1943年は激しい山岳戦の間に暮れ、年が明けた1944年1月10日に至るまで第100歩兵大隊は常に先鋒を務め、2度も大隊長が交替するという激戦の中で100名を超える戦死者を出しながら高地群のドイツ軍を次々と突破し、後にイタリア戦線最大の難所と呼ばれるモンテカッシーノに迫りました。

 1944年1月23日~2月15日の間で行われたモンテカッシーノの戦いは、第100歩兵大隊にとってもっとも辛い戦場であったと言われています。
小高い丘から見下ろされる平野部には身を守る障害物、木々も一切無く、上流を破壊されたラピト川の水が氾濫して当たりを一面の泥濘に変えていました。
 第100歩兵大隊は、凍えるような吹雪の中で昼間は死体のふりをして転がり、夜間に泥まみれになりながら前進するを繰り返し、他の連合軍がそれまでたどり着けなかった対岸まで渡りきりました。しかし他の友軍が追従できず、孤立したため、ついには撤退を余儀なくされます。
 モンテカッシーノの戦いは彼らが敗退した唯一の大きな戦闘であり、その負傷者の多さから「パープルハート・バタリオン(戦傷章大隊)」の異名で呼ばれました。

ローマへの道
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 1944年2月~3月の間で補充兵を加え再編成を行った第100歩兵大隊は3月24日にアンツィオへ上陸、以後6月に至るまでアンツィオ橋頭堡での戦闘に従事します。

 1944年6月3日、第100歩兵大隊長ゴードン・シングルス中佐は、第100歩兵大隊に5つの重火器部隊を編成した「シングルス任務部隊」の指揮官となりました。
 ドイツ軍装甲師団の守る高地を瞬く間に陥落させ、更にハイウェイを前進。その進撃速度はあまりに速く、ついには師団司令部との連絡も取れなくなる始末だったそうです。

 6月5日にローマまで10kmに迫った第100歩兵大隊は、すべての連合軍部隊の先頭に立っていました。しかし、前進を停止する命令が下され、他の部隊の通過を待つこととなった日系人部隊はローマ一番乗りをすることができませんでした。
※実際にローマに一番乗りで入城したのは第1特殊部隊とその指揮官、ロバート・フレデリック大佐であり、彼らは第100歩兵大隊よりも早くからイタリアで戦っており、その戦歴も第100歩兵大隊に負けず劣らずでした。また、当時のB中隊長だったサカエ・タカハシ氏は「通常の措置であり、人種差別ではなかった」と証言しています。

 第100歩兵大隊はローマを迂回し夜の10時30分にローマ北西の町外れに到着します。
 その後更に40マイルの移動の後、第100歩兵大隊はチビタベッキアの北に到着、ようやく休息を取ることができました。

第442連隊戦闘団
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Training in Shelvy
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 第442連隊戦闘団は、1943年2月1日にミシシッピー州のキャンプ・シェルビーにおいて編制されました。

第442歩兵連隊を中心に第522野砲大隊や第232工兵中隊等、通常の歩兵連隊には付属しない支援部隊を含んだ「連隊戦闘団」と言う編制は、当時のアメリカ陸軍では一般的ではありませんでした。

 既に軍務についていた者を集めて編成された第100歩兵大隊と異なり、第442連隊戦闘団(以下442RCT)は将校は中隊長以上は白人(第232工兵大隊のみ日系アメリカ人のパーシング・ナカダ大尉が中隊長)、下士官(の多く)は戦前から軍務についていた本土出身兵、兵は全員志願兵という構成で成り立っていました。

 また、ハワイ出身兵と本土出身兵(多くが西海岸の日系人収容所から志願)が半数ずつで構成されていた点も、ほぼ全員がハワイ出身だった第100歩兵大隊と異なりました。

 そこではハワイ兵と本土兵の文化、習慣の違いから来る対立や、本土出身で固められた下士官とハワイ兵との対立等もありましたが、1年以上かけてよく訓練され、第100歩兵大隊から遅れる事約9ヶ月後の1944年6月2日にイタリア戦線へと到着。

 第1大隊はそのほとんどの兵力を第100歩兵大隊への補充兵として送った為に部隊として消滅しており第2、第3大隊がその主力でした。

 6月7日にはアンツィオへ上陸し、早速砲撃による出迎えを受けています。

6月11日にチビタベッキアにおいて442RCTは第34師団へ配属。

 同時に第1大隊が欠となっていた442RCTに、第100歩兵大隊が第1大隊として配属されましたが、通常”第1大隊”となる所、これまでの戦歴を考慮され、部隊名称はそのまま第100歩兵大隊とされました。

ベルヴェデーレの戦い
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 442RCTは1944年6月24日からリヴォルノの前線に投入、その緒戦としてベルヴェデーレの攻略にあたります。

 6月26日、午前8時30分に攻撃を開始。第100歩兵大隊を予備として第2、第3大隊が行動を開始しました。しかし第2大隊は砲撃により損害を受け、第3大隊もまた敵の防衛ラインに当たり進撃を停止、混乱に陥ります。

これはドイツ軍の頑強な抵抗の為ですが、やはり初陣と言う事で第2、第3大隊に混乱が生じやすかったのも否めません。

 第34師団長チャールズ・ライダー少将は自身も砲撃を浴びて乗車を破壊され、ヘルメットも失って徒歩で442RCTの前線へと向かう途中に予備として待機中の第100歩兵大隊を見かけます。

「シングルス(第100歩兵大隊長)!このヘマの片をつけろ」 師団長の言葉は命令として442RCTに伝えられ、第100歩兵大隊は前進を開始します。

 停止して動けない第2、第3大隊の間から一気に敵の背後に周り込み、僅か3時間でベルヴェデーレの防衛ラインを攻略したのです。

 その後、第100歩兵大隊はベルヴェデーレの掃討を第2大隊へ任せ、自身達は町には入らずに前進を継続します。

 そして明けた6月27日。

第100歩兵大隊B中隊は、ベルヴェデーレからサッセッタを望む道路を見下ろすように布陣していた、ドイツ軍「第19空軍突撃師団第38猟兵連隊(L)第1大隊第2中隊」と対峙するのでした。

 

部隊編制表
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第34師団長
LtG.Charles W. Ryder
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第100歩兵大隊長
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第442歩兵連隊長・第442連隊戦闘団長
Col.Charles W. Pence
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第100歩兵大隊・B中隊長
Cpt
.Sakae Takahashi
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